大判例

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高松地方裁判所丸亀支部 昭和49年(ワ)6号 判決

原告 福崎恭子

右法定代理人親権者父兼原告 福崎仙三

右同母兼原告 福崎美智子

右三名訴訟代理人弁護士 片山邦宏

被告 坂出市

右代表者市長 番正辰雄

右訴訟代理人弁護士 後藤吾郎

同 饗庭忠男

右後藤吾郎復代理人弁護士 徳田恒光

主文

一  原告らの各請求をいずれも棄却する。

二  訴訟費用は原告らの負担とする。

事実

第一  原告らは「被告は原告福崎恭子に対し金三八五〇万円、同福崎仙三に対し金三三〇万円、同福崎美智子に対し金三三〇万円及び各原告について昭和四六年二月二三日から完済に至るまで年五分の割合による金員の支払をせよ。訴訟費用は被告の負担とする。」との判決並びに仮執行宣言を求め、被告は主文同旨の判決を求めた。

《以下事実省略》

理由

一  当事者間に争いない事実

原告恭子は同仙三を父とし同美智子を母とし、その間の三女として昭和四五年一〇月二七日午前九時四五分に丸亀市内の三木産婦人科医院で出生したが、右出生は予定日より約七〇日程早く、生下時体重は一二五〇グラムでいわゆる未熟児であったため、即日被告の開設する坂出市立病院(被告病院)(病院長、岡)内の未熟児センター(被告センター)に入院し、小児科医の飛梅担当のもとに、同年一二月八日まで保育器に収容され、その間、入院当初から同年一一月九日まで一三日間酸素の投与を受け、同年一二月二五日退院した。

ところが、右退院当日被告病院眼科医青野が同恭子に対し初めて行なった眼底検査の結果によると、同恭子は未熟児網膜症(本症)にかかっていたもの(もっとも、青野は当日はその事実を原告らにも告げなかった。)で、結局、その後の翌四六年二月二三日香川労災病院における青野(青野は被告病院と香川労災病院の双方で診療を担当していた。)による眼底検査時までに、同恭子は本症により両眼とも完全に失明したものである。

二  本症等について

《証拠省略》を総合すると、次のとおり認めることができ、この認定を動かすに足りる証拠はない。(なお、参考として、右《証拠省略》中本症に関する主要な論文、講演記録、学術書等をほぼ発表順に並べたものを文献目録として本判決末尾に添付する。これは、一部分原告ら訴訟代理人作成にかかるものに付加修正を施したものである。)

(一)  本症の病態と臨床的分類

本症は主として未熟児(生下時体重が二五〇〇グラム以下の乳児乃至身体の発育が未熟のまま出生した乳児であって、正常児が出生時に有する諸機能を得るに至るまでのもの)に発現する発達途上の網膜の疾患であり、その病態ないし臨床像は、オーエンスの分類に従ってほぼ次のような段階的経過をたどるものとされている。(以下、「活動期第一期」というときは、オーエンスの分類によるそれを意味する、他もこれに準ずる。)

1  活動期

(1) 第一期(血管期)浮腫状に混濁した明らかな無血管帯が網膜周辺に存在し、発育が完成していない血管の先端部における分岐過多(異常分岐)や異常な怒張や蛇行が認められる。

(2) 第二期(網膜期)明らかな無血管帯と、それより後極側で血管の怒張、蛇行、新生血管の認められる部分との間に境界線が認められる。無血管帯は青白ないし黄白色を呈して浮腫がみられ、浮腫の発生により更に血管の圧迫が起り、境界線は次第に後極に向って進行する。

(3) 第三期(初期増殖期)初期では、新生血管が硝子体内に侵入し、新生血管からの滲出物が硝子体内に認められる。このころから後極部に軽度の動脈の蛇行、静脈の怒張があらわれる。中期に入ると、血管は間葉系組織を伴って硝子体内に侵入し、増殖性変化が著明となり、新生血管からの滲出も強くなり、出血がほとんどの例に見られる。晩期になると、間葉系組織は堤防状に硝子体内に増殖し、水晶体後面に近づけば徹照しただけでも白色塊が認められる。このころには、視神経乳頭上から動脈の蛇行、屈曲、静脈の強い拡張が明らかになる。やがて周辺部網膜は剥離を起してくる。

(4) 第四期(中等度増殖期)増殖性変化、網膜剥離は更に著明になり、虹彩が水晶体前面と癒着し始め(虹彩後癒着)、散瞳剤を点眼しても散瞳しなくなってくる。

(5) 第五期(高等増殖期)網膜は全剥離の状態となる。

2  回復期

右の病変がある時点で停止し、自然治癒に向って反転進行する時期。

本症は自然治癒傾向の旺盛な疾患であって、活動期第一期、第二期までで自然治癒するものが大部分であり、活動期第二期までに治癒したものは殆んど痕跡を残さないが、それ以上進行したものは増殖性病変の程度に応じて視力に重大な影響を与える瘢痕性病変が残る。活動期第四期、第五期まで進んだものは失明かこれに近い準盲状態となるが、本症の進行を放置した場合でも失明に至る重症例は全未熟児のうち数パーセントである。

3  瘢痕期

回復期の反転進行した病状が固定化する時期をいい、その程度によって一度から五度に分けられ、三度以上ではもはや日常生活に必要な視力は得られず、四度以上ではいわゆる後水晶体線維増殖(眼の水晶体後方に血管を伴う組織増殖のある状態)の状態を呈する。

そして、症状が以上のとおりの経過で段階的に進行し、比較的緩徐な経過をたどり、自然治癒的傾向の強い型のもの(「Ⅰ型」「じわじわ型」と称される。)と、そうでない型のものがある。後者は、前者に比し例数は遙かに少いが、主として極小未熟児(極小低出生体重児)にみられ、未熟性の強い眼に起るものであり、初発症状は、血管新生が後極よりに耳側のみならず鼻側にも出現し、それより周辺側の無血管帯が広いものであるが、ヘイジイメディア(透光体の混濁)のためにこの無血管帯が不明瞭なことも多い。後極部の血管の迂曲、怒張も初期よりみられ、滲出性変化も強く起り、前記のような段階的経過をとることは少く、比較的急速に網膜剥離に進む。自然治癒傾向も少く、予後不良であり、数回にわたる光凝固法等による努力も空しく失明に至ることも稀ではない(「Ⅱ型」「激症型」「ラッシュタイプ」と称される。)。更に、右両型の外に、極めて少数であるが、Ⅰ、Ⅱ型の混合型(「混合型」と称される。)ともいえる型がある。

そして、活動期の初発時期は生後二週乃至三ヵ月であり、とりわけ三週乃至八週に発症するものが多い。活動期の期間は個体差があり、二ヵ月より一年以上にわたるものもあり様々である。活動期の第三期に達するまでには六週乃至九週かかるものが多い。もっとも、Ⅱ型では生後一週乃至三週で発症し、発症後一晩乃至四、五日で網膜剥離にまで進行してしまう例がある。

(二)  原因

本症の発生原因としてかつては幾多の説が出されたが、現在では保育器中の酸素が原因乃至誘因であるとする酸素(中毒)説が最も有力視されている。ただ、酸素がいかなる機序によって未熟な綱膜を障害するのかという点については未だに定説がない。

ところで、本症が網膜の未熟性、特に網膜血管の未熟性をもって生まれた児においてのみ発生するという点については異論のないところであって、成熟児における本症の発生も網膜血管のみは未発達で出生したことによって説明されており、本症の絶対的原因すなわち素因が網膜の未熟性にあることは争いのないところである。そして、生下時体重の少ないものほど、また、胎令(在胎週数)の少ないものほど発症率が高く、重症例の割合も多い。

(三)  予防法

未熟児に対する酸素投与を最低限に抑制することが本症予防の原則である。そして、投与する酸素の環境濃度(未熟児が口又は鼻から吸入する空気の酸素濃度)について言えば、原則として、これを四〇パーセント以下に抑えておくべきだとされる。その他、酸素の濃度を制限するだけでなく、その投与期間も必要最小限度に短縮する必要があるといわれている。しかし、酸素をあまり切りつめると、呼吸窮迫症候群による死亡や脳性麻痺等が増えるとの指摘もあり、本症の発生には酸素の環境濃度よりもむしろ血液中の濃度が関係するのであり、呼吸障害があるような場合は呼吸による酸素吸収能力が劣るため高濃度の酸素を与えてもその割に血液中の酸素濃度(酸素分圧)は上らないから、このような場合にはむしろ四〇パーセントを超える高濃度の酸素を与える必要があるといわれている。他方、酸素濃度を四〇パーセント以下に制限しても(時には全く酸素投与をしなくても)本症の発生する例のあることも近年明らかにされている。

なお、定期的眼底検査が本症の予防に有用であるといわれたこともあったが、現在では、血液中酸素分圧値と綱膜血管径との間には相関関係が認められないこと及び本症発生が問題となり勝ちな生下時体重一五〇〇グラム以下の未熟児においてはヘイジイメディアの存在のために眼底検査を満足に行ないえないことの故に、右検査は本症の予防法としては役立たないとされている。

(四)  治療法

治療法として、酸素投与の方法を加減することが考えられ、その旨が主張されたこともあったが、前記のように、酸素をあまり切りつめると呼吸窮迫症候群による死亡や脳性麻痺等の発生の危険が生じるという問題もあり、また、本症は主として酸素投与期間経過後に発生するので、これが有効な治療法となるとは考えられない。もっとも、古くは、本症の初期の症状が現れたら、再度高濃度の酸素環境に戻してから徐々に濃度を下げていく方法が主張されたことがあったが、その後右の方法は効力がないとされるに至った。

薬物療法(ACTH、副腎皮質ホルモン(ステロイドホルモン)、ビタミンA、E、P、ATP、蛋白同化ホルモンの投与)については、治療法として活動期の初期に投与すれば効果があるとの主張もあったものの、未だ治療法として確立の域に達していたとはいい難く、その効果については、昭和四五年一一、一二月当時すでに自然治癒との間に有意な差を見出しがたいことが指摘されており、以来治療法としての有効性を積極的に確認した報告はなく、また、とくに、副腎皮質ホルモンについては副作用のあることもあいまって、いずれも有効な治療法ということはできない。

これに対し、網膜の増殖性変化を阻止する治療法として近年最も有力視されているのは、永田(天理病院眼科医師)によって昭和四二年に発表(文献発表は翌四三年)された光凝固法や山下由紀子(東北大学眼科学医師)によって同四七年に発表された冷凍凝固法である。これは、進行しつつある網膜及び血管を破壊して増殖傾向を阻止する方法であり、その治療の時期(活動期第三期の初期までに施行されない限り効果はない。)と方法を誤らなければ本症に対する最善の治療法とされている。もっとも、比較的急速に症状が進行する前記のⅡ型の場合には、その適応時期を失することも多く、また、光凝固法等の施行自体が困難な場合も多いとされる。なお、最近では、右凝固部の網膜機能が著しく低下することを指摘する向きもあり、かかる治療法自体発育過程にある網膜に対する侵襲となり、なんらかの副作用(晩発性副作用も含めて)を将来出現させる可能性も心配されており、全く問題が残されていないわけではない。更に、ごく最近では、光凝固法については外国の学者による反対意見も出て再検討の段階に入った感があるとし、有効性の判定は今のところできておらず適応例も限定されるとして、特にⅠ型に対する光凝固法の安易な施行をいましめる主張や、本症は放置しても大部分は自然治癒し、光凝固法を行っても進行して失明するものもあり、光凝固法が本症に対して本当に有効であるかどうかはまだ研究中に属することであって、研究者が行うのであれば許されるが、一般的な方法として実地医家が応用する段階にはなっていないとして、光凝固法の濫用をいましめる主張が有力な研究者によってなされている。

右のように本症はその初期(活動期第三期の初期)の段階までに発見されない限り治療方法はないから、その早期発見のために定期的眼底検査が必要である。そして、現在では、右検査は出生体重一八〇〇グラム以下の低出生体重児、胎令三四週以前のものについては全例に、それ以外のものでも酸素投与を受けたものについてはこれを行うのが望ましいとされ、その第一回は生後三週ごろに行い、生後六ヵ月まで定期的に同一検者により連続して行うべきであるとされている。もっとも、前記のⅡ型の場合には、発症時期が早いため、保育器内に入れたまま検査せねばならない例が多く、また、ヘイジイメディアを通して初期変化をのがさずつかむ必要があり、眼科医側に相当の熟練を要するとされている。

なお、本件においては、原告恭子が被告センターに入院中の昭和四五年一一、一二月当時における定期的眼底検査の普及の程度及び医師の光凝固法に対する認識の程度が問題になるので、これらの点につき項を改めて述べることにする。

(五)  原告恭子が被告センターに入院中の昭和四五年一一、一二月当時における定期的眼底検査の普及の程度

1  定期的眼底検査の必要性の提唱

昭和四〇年一一月に各医学専門分野の医師らの協力による小児疾患の総合治療と小児専門医の育成を目的として設立された国立小児病院では、小児科と眼科が協力して未熟児に対する眼科的管理が行われ、その結果に基づき同病院眼科の植村、同小児科の奥山の両医師が昭和四一年秋に共同研究の結果を発表すると共に、その後も主として植村が医学雑誌等に論文を発表し、我国においても、酸素の制限が行われているにも拘らずなお多くの本症の発生がみられ年年増加しつつあると警告すると共に、早期発見早期治療(もっとも、治療法については、従来から提唱されていたACTH、副腎皮質ホルモン、蛋白同化ホルモン等の投与以上には出ることがなく、しかも、その効果についてはむしろ疑問を投げかけ、新しい治療法の開発を呼びかけた。)のために眼科医による定期的眼底検査の必要性を提唱し、かつ、同様の主張を繰り返した。

もっとも、右以前にも、一部の先駆的研究者によって実験的研究的に眼底検査が行われていたことはあったようで、それらの研究者において、眼底検査の重要性を説いたもの、眼科医から小児科医又は産科医に対し早期発見のため協力を求めたものなどがいくつかの文献にはみられたが、その中にはなんら具体的な方法を示さない抽象的な呼びかけをしているものであったり、本症治療のためではなく予防のために必要とするものであったり、酸素投与方法の指針等一般的な養育の参考資料を供するためであったりというものも多く、未だ一般臨床医はもちろん大方の専門的研究者の関心さえ引くに至らなかったものと思われる。

前記植村、奥山による研究発表後、同人らと同趣旨で定期的眼底検査の重要性を説く塚原(関西医科大学眼科学教授)等二、三の医師の論文も医学雑誌に発表された。なお、昭和四一年一一月刊の日本産科婦人科学会新生児委員会編新生児学の後水晶体線維形成症の「診断」の項目中にも「可及的に眼底検査(毎週一回)を行うことが必要」との記載があるが、これは診断のために必要という趣旨であり、現に「治療」の項目中には「積極的治療法はない。」との記載があった。

昭和四二年になって、天理病院の永田は本症の治療法として光凝固法を用いることを考え、我国で初めて二症例に右療法を用いたところ頓挫的に病勢の中断されることを経験し、更にその後一〇症例に施行して治療効果をあげ、これを昭和四五年一一月までに学会において乃至眼科、臨床眼科なる医学雑誌において発表すると共に、光凝固法による治療適期を逸さないために未熟児の定期的眼底検査の必要性を強調した。

しかしながら、他方、昭和四三年五月(文献発表は同年九月)日本小児科学会新生児委員会の出した「未熟児管理に関する勧告」(二〇床以上の規模の施設を想定したもの)や、同四四年一二月刊の東大小児科治療指針(改訂第六版)中には、眼底検査のことは触れられていなかった。

2  定期的眼底検査の普及度とその理由

国立小児病院では昭和四〇年一一月の開設時より、天理病院でも同四一年八月より、また、塚原の属していた関西医科大学でも昭和四二年三月より、本格的に小児科と眼科との連携体制を確立し、小児科医の依頼により原則として生後三週乃至一ヵ月目から眼科医による未熟児の定期的眼底検査を行っている。そして、右三病院はそれぞれ植村、永田、塚原が眼科を担当しその指導下にあって我国における本症の研究及び診療(どちらかといえば当時は研究の面が強かったとみられる。)に関して最も先進的な水準の病院であった。しかし、右定期的眼底検査が一般の医療機関に普及するについては次のような障害があった。(一般に診療に関する新知識が一般臨床医にまで普及するには一定の期間の経過を要するのが通常であるが、その点を別にしても、次のような障害があったという趣旨である。)

(1) 眼科医の絶対数が不足(眼科医が欠員の病院が多い実情にある。)で負担が重いうえ、我国では本症の実在が一般に知られたのが比較的新しく、その上、本症の発生が未熟児の養育に当っている医療施設に限られるもので、未熟児の眼底を見て本症の発生の有無乃至各期の判別をなしうる眼科医が少なかった(昭和五〇年時点でも決して多いとはいえない。)こと

(2) 病院当局、小児科、眼科の三者に未熟児の眼底管理に対する一致した認識がない限り定期的眼底検査の体制を作ることは困難であるのに、従来から小児科と眼科ではこれまで医療に関して連携体制をとった経験がなく、従来の母子保健法による未熟児養育医療施設においても小児科又は産科医のいる病院や産院であればそれでよいとして、眼科医の問題が考えられていなかったこと

(3) 本症の発生率は少なく、かつ、自然治癒率が高いうえ、光凝固法や冷凍凝固法の有効性が一般に認識されるに至るまでは、発見しても確実な治療法のないことから、未熟児の眼底管理に対する意義があまり認められていなかったこと

(4) 対象が未熟児であるだけに、技術的にも困難さが伴い、経験ある指導者について半年乃至一年の訓練を必要とするのみならず、眼底検査そのものが未熟児に対する侵襲となり、一般状態への悪影響を及ぼしうること

右のような障害のため、前記三病院以外の未熟児室を有する大学(医学部付属病院、医科大学)や医療機関への定期的眼底検査の普及は遅く(なお、青森県立中央病院では昭和四二年一月から同四四年四月までルーチンとして眼底検査を行っているが、定期的に行ったものとは認め難い。)、例えば東京大学においてもその実施は昭和四四年九月以降のことであった。そして、昭和四五年当時、九州大学、鳥取大学、名古屋市立大学、国立大村病院、同福岡中央病院、県立広島病院、神奈川県立こども医療センター、兵庫県立こども病院(この病院は小児専門病院として、東京、大阪に次いで昭和四五年五月開院)、松戸市立病院、名鉄病院においては定期的眼底検査を行っていた(なお、京都府立医大でも行っていたかは明らかでない。)ことが、いずれも昭和四六年以降に発表された文献上伺えるが、同四七年六月に至っても、同年同月刊の眼科一四巻六号(以下「眼科一四・六」という。他も同様。)の「未熟児網膜症の臨床上の問題点」で九州大学医学部眼科学教室講師の大島健司は「すでにこのような眼の管理の行われているところもあるが、一般にはまだまだ少なく、全国的に普及させる必要がある。」と主張している程であるし、同じく同四七年六月刊の小児科臨床二五・六の「未熟児網膜症、眼科医の立場から」で植村は「現況では、すべての未熟児を扱う病院において眼科医による定期的眼底検査が行われているか甚だ疑問である。」とし、また、同年一一月刊の眼科臨床医報六六・一一には第二五回兵庫県眼科医会学術集談会での質問に対する講師兵庫県立こども病院山本節医師による回答として「本症の観察治療はまだどこの眼科でもやってもらえる状態ではなく、診察を受けた患児は幸せだと思っている。」との記載があり、同四九年五月刊の日本眼科紀要二五・五の「地域医療における未熟児網膜症発見率向上への試み」中で永田らは、同四七年三月乃至四八年九月までの期間に接した症例を対象として「医療の中心である大学付属病院、国公立病院より重症瘢痕病変児がかなりの数で出現していることは、本症の予防並びに治療の概念の普及が充分でなく早期発見、適時治療の態勢がまだ確立されていないのではないかと推測される。」と述べており、全国的にみると定期的眼底検査の普及率は非常に低く、昭和四五年より数年を経た後の昭和四九年八月現在でも、比較的医療水準が高いとみられる東京都と神奈川県下の主として指定養育医療機関を対象とした調査によっても、なおその普及率はせいぜい五〇乃至六〇パーセントにすぎない状況にあったものである。

3  定期的眼底検査の普及度と地域性等

国立岡山病院は、未熟児養育に深い関心と開拓者的熱意を持った岡山大学出身の小児科医師山内逸郎を得て、厚生省による未熟児養育医療制度が出来る以前の昭和二七年ごろより未熟児センターを設置して未熟児養育に取り組んできており、昭和五一年現在同病院未熟児センターは、未熟児養育については全国で三指乃至五指に入る程の規模内容を有している。そして、つとに昭和二八年当時本症についての論文発表をしていた岡山大学医学部助教授の奥田観士(以下「奥田」という)を副院長に迎えた後の同三六年ごろから、奥田ら同病院眼科医の手によって収容未熟児の眼底検査が研究目的のためにぼつぼつ行なわれ出した。しかしながら、右のごとき先進的な国立岡山病院においてすら、昭和四二、三年ごろ迄は、原則として、本症発症のおそれのある極小未熟児についてのみ、もし発症しておればその旨を親に告知しておくために、小児科医の個々的要請により、退院時に一回眼底検査を行っていたにすぎず、同四二、三年ごろからは奥田ら同病院眼科医の研究目的を兼ねて発症の疑いの強い未熟児については、小児科医の個々的要請により、退院前においても眼底検査を行うようになったものの、基準を定めて定期的眼底検査を行う体制が出来たのは同四六、七年以降のことであり、これはひとえにその当時になってようやく治療の可能性が見え出したことによるものであった。

また、四国四県のうち、古くから医科大学乃至大学医学部を有していたのは徳島県だけで、愛媛県、高知県においてもそれを有することになったのはここ数年内のことであり、被告病院の所在する香川県に至っては現在なお県内に医科大学乃至大学医学部を持たないという数少ない県であるが、それかあらぬか、全国的にみて四国地方特に香川県は新生児未熟児医療について一番遅れた地域であるとされている。すなわち、小児科学会の一分科会たる未熟児新生児研究会の総会(毎年開催)に出席する医師は、未熟児保育の一応の水準にある、といわれているところ、昭和四五年当時香川県から右総会に出席した医師は皆無であり、また、未熟児新生児研究会の評議員に四国からは最近迄一人も出ていなかったという事実によって、また、四国の眼科学会で最初に本症についての講演がなされたのは昭和四八、九年のことであったという事実によって、それは裏付けられるとされる。

更に、医学部を有する国立大学のうちで被告病院の最も近くにある徳島大学及び岡山大学は、四国在住の医師の有力な供給源でもある(後記のように、これらの大学は飛梅、青野の出身大学でもある。)が、少くとも昭和四五年当時はこれらの大学には未熟児センター(未熟児室)は存在しておらず、従って未熟児に対する定期的眼底検査なるものも行っていなかった。最近になって、四国から初めて前記未熟児新生児研究会の評議員を出し、未熟児養育に関して四国では比較的先進的病院とみられる松山赤十字病院においても、定期的眼底検査を開始したのは昭和四六年一月から(文献発表は昭和五〇年二月)のことであった。(なお、愛媛県立中央病院では昭和四五年五月から四六年九月までの間に二例につき徳島大学へ紹介して光凝固法を受けさせている(もっとも、その文献発表は昭和四七年一一月である。)ので、昭和四五年五月から定期的眼底検査を行っていたとも考えられるが、右文献の記載が簡単なため必ずしも明らかでない。)

香川県についてこれをみるに、昭和四六年時点の調査によると、県内の国公立病院中、多少なりとも未熟児に対し眼底検査を実施していたのは国立善通寺病院(未熟児を保育器から出した時点で検査可能であれば行い、不能のときは可能になった時点で行い、その後必要に応じ行う。)、三豊総合病院(退院直前に一回、退院後二週間目に一回行う。)、高松赤十字病院及び屋島総合病院(いずれも必要と認めたものについてのみ退院時に行う。)のみで、県立中央病院、県立津田病院、県立栗林病院では全く眼底検査を行っていなかったものである。

右のうち、国立善通寺病院は古く昭和三四年から特殊小児診療センターを開設し、未熟児の養育も同センター内でこれを行っていた先進的な病院で、県内国公立病院中昭和四五年当時すでに眼科医による定期的眼底検査を実施していた唯一の病院であるが、同病院が県内で他病院に先がけて右を実施するに至った事情は次のとおりであった。すなわち、同病院眼科には眼科医の松原が常勤していたところ、同病院での未熟児養育担当の小児科医(女医)杢保淳子(以下「杢保」という。)は松原と同級生であったこと、同病院では未熟児養育室と眼科とが同じ病棟にあったこと、松原は同病院へ赴任する以前徳島大学医局に七年間おり、その間成人の光凝固法の研究を二年間やったことがあり成人の眼底検査については経験豊富であったこと、杢保としては、同病院では未熟児養育に関し相当の予算を貰っていた関係でデータを必要としており、かつ、本症の発生を減らすべく酸素投与の今後の参考にしたいと考えていたこと、の諸理由から、杢保は松原に未熟児の眼底検査を依頼するようになったものである。ところで、松原は杢保から初めて本症の存在を知らされたものであるが、成人の眼底検査には自信のあった松原も、未熟児に眼底検査をすることによる未熟児の身体や眼への影響を心配して恐怖感を抱き、当初はなかなか右依頼に応じようとしなかったが、杢保が同級生の女医であることから断わりきれなかったことと、未熟児の眼底検査についてのデータをとっておけば自分のやりたい斜視弱視センターの予算獲得に有利になるかもしれぬとの考えから、ようやくこれを承諾し、昭和四四、五年ごろから、前記恐怖感と戦いつつ、杢保よりの個々的依頼に基づき保育器から出て一週間乃至一〇日目くらいに未熟児に対する眼底検査を行うようになった(後には前記のようにもう少し早い時期から行うようになった。)が、未熟児の眼底は成人のと全く異っていて当初は正常異常の区別すらつかず、出身の徳島大学に問合せてみても、本症のことを知っている医師自体少なく、当時同大学医局のみならず四国在住の同大学出身の医師で未熟児の眼底検査をしている者もなく、指導者のないまま、オーエンスの文献を入手していわば独習的に研究しながら実施してみたものの、本症の判別、本症各期の判定自体困難を極め、いわば暗中模索の状態であったものである。治療については、副腎皮質ホルモンには副作用があって未熟児には不適当と考えていたし、昭和四五年ごろには永田による光凝固法の適用例のことは知ってはいたものの、症例も少なく追試も出ていなかったほか、光凝固法を未熟児に適用すること自体別世界の夢物語のような印象を抱いていたので、治療と結びつけて眼底検査を行ったわけではない。もっとも、松原は、昭和四五年一一月五日出生直後に同病院に収容された松下誠なる未熟児を翌四六年三月二五日に天理病院へ紹介した結果同病院で光凝固法を行ったことがあるが、これは松原においては、同児につき本症は発生したものの昭和四六年二月一五日の検査時点で治癒したと思っていたところ、同児の家族の申出により念のためもう一度同年三月二五日に検査した結果、本症が進行していて放置すれば失明は必至であるが何とも処置の方法がないことが判明したのでその旨を告げたところ、家族より何とかしてくれと懇願されたため、たまたま天理病院に知人の医師が居たので、永田の光凝固法を評価していたわけではないが、自分よりえらい医師に診てもらうという趣旨で、右知人の医師に永田への紹介方を依頼したことによるものであった。右のとおりであって、国立善通寺病院において昭和四四、五年当時より定期的眼底検査を実施していたのは、右のごとく開拓者的精神にあふれた四国では先進的な医師がいた等極めて恵まれた諸条件下にあったことによるもので、四国特に香川県では極めて特殊な例であったといいうるのであり、結局、昭和四五年一一、一二月当時四国特に香川県内で定期的眼底検査を行っていた医療機関は他にはおそらくなかったといいうるものである。(ちなみに、被告病院においては、飛梅が昭和四六年七月独立開業のため同病院を退職した後しばらく後任医師を欠いていたという事情があったものの、被告センターが定期的眼底検査を行うようになった(右により光凝固法乃至冷凍凝固法適応ケースを発見した場合は岡山大学へ転医させる体制も確立した)のは昭和五一年一月からである。)

(六)  前同昭和四五年一一、一二月当時における医師の光凝固法に対する認識の程度

1  光凝固法実施状況とその文献発表

まず、昭和四五年一一、一二月の時点においては、冷凍凝固法は未発表であったから、当時における医師の同法に対する認識ということは問題にならない。さて、光凝固法については、昭和四五年一一、一二月当時、その実施結果を報告した文献は永田により眼科の専門誌である、眼科及び臨床眼科に発表された四編の論文のみであり、かつ、その症例数も僅か一二例にすぎず、いわば臨床実験段階と言ってもよいものであって、他の医師による追試報告は一編も発表されておらず、その適応、予後、副作用、遠隔成績の検討、自然経過との比較等についてはすべて今後の追試による検証をまつほかはない状態にあったものである。(永田自身、静岡地方裁判所における昭和四九年一二月三日施行の証人尋問の際「(現在では)追試段階を終りかけていると理解している。」と証言しており、昭和四九年一二月三日時点でも追試が完全に終ったと考えていたわけではない。)

もっとも、永田の発表に触発されて昭和四五年末迄にも臨床実験乃至追試として光凝固法を実施した医療機関として次のものがあったことは文献上伺えるが、その文献発表はいずれも昭和四六年以降のことであった。

(1) 九州大学では昭和四五年一月から同年一二月迄の一年間に二三例に対して実施されたが、うち二一例は著効を見、一例は不良、他の一例は片眼著効、他眼不良であった。

(2) 関西医科大学では同年六月から一一月迄の間に五例施行し、うち二例は治癒(うち一例は他院よりの転医児)、二例は失明(いずれも他院よりの転医児)、一例は片眼が二度、他眼が四度の瘢痕を残した。

(3) 国立大村病院では同年中に二例施行。

(4) 松戸市立病院では同年中に七例(うち二例は他院よりの転医児)施行し、一例は治癒せず。

(5) 大阪北逓信病院では昭和四四年三月に一例、同四五年中に三例施行。

(6) 名鉄病院では昭和四四年三月から同四五年末迄の間に一八例施行(多くは他院よりの転医児)。

なお、右のほか、施行時期の詳細な記載がないため昭和四五年末迄に施行されたものを含むのか含まないのか明らかでないものとして、次のものがある。

(7) 兵庫県立こども病院では昭和四五年五月から同四六年四月迄の間に二例、京都府立医科大学では同四四年一〇月から同四七年九月迄の間に九例(多くは他院よりの転医児)、県立広島病院では同四五年一月から同四六年八月迄の間に一二例、徳島大学では同四五年五月から同四六年九月迄の間に二例(愛媛県立中央病院よりの転医児)、それぞれ施行した。

しかしながら、以上の施行例が文献発表されたのは、いずれも昭和四六年以降のことであった。

そして、国立岡山病院においても光凝固法の施行を開始したのは昭和四七年以降であり、松山赤十字病院でも同四七年のことである。

2  昭和四五年一一、一二月当時迄の光凝固法に対する永田自身の評価等

永田は昭和四五年一一月刊の臨床眼科二四・一一で「光凝固法は現在本症の最も確実な治寮法ということができる。」と述べてはいるが、前記のように、当時他の医療機関における追試報告が一編もなかったことよりすれば、右はあくまで自己の関与した一二例の治療経験に基づく自己の確信を表明したものにほかならないといわざるを得ない。更に、永田自身、昭和四三年一〇月刊の眼科一〇・一〇の「未熟児網膜症の光凝固による治療の可能性について」の中で「本症重症例のすべてが光凝固法で治療可能な病期を経過するとは限らない。」とも、「光凝固法により人工的瘢痕を作ることが今後の眼球の発育に影響がないかどうかは今後の経過観察にまつ他はない。」とも述べていたし、同四五年五月刊の臨床眼科二四・五の「未熟児網膜症の光凝固による治療Ⅱ」では「この治療法を全国的な規模で実施するにはなお病院間の連絡体制を含むかなり困難な条件が存在する。」という趣旨を述べ、また、同年一一月刊の「今日の小児科指針」中の「未熟児網膜症」の項は永田の執筆にかかるものであるが、同項において「光凝固法で治療すれば本症による失明児ないし弱視児を完全になくすことも不可能ではない。」としながらも、それに続けて「小児科医、産科医、眼科医、麻酔医の緊密な協力、光凝固装置の設備がある病院との緊密な連絡などの条件が満たされてはじめて達成できることである。もしこのような条件の満たされない場合は本症発生の予防に全力をそそぐほかはない。」と述べていた。

以上のとおりであって、永田自身、一方では光凝固法の治療法としての確実性についての確信を表明すると共に、他方では、光凝固法が治療法として万全のものではないこと及び光凝固法が実際に施行(転医による施行を含む)されるためにはまず前提諸条件の整備が必要であることをも当時から指摘していたといえよう。

3  昭和四五年一一、一二月当時迄の目ぼしい文献に現われた光凝固法に対する他の研究者、医師等の評価

(1) 積極的評価について

植村は昭和四三年一一月刊の産婦人科の実際一七・一一においては「永田らにより光凝固法という新しい治療法も登場し」と一行紹介したにとどまっていたが、同四五年七月刊の小児科一一・七において、本症の治療法の一として光凝固法を挙げたほか、同年一二月刊の日本新生児学会雑誌六・四において「光凝固法の開発により本症は早期に発見すれば失明を起さずにすむことがほぼ確実になった。」と述べた。しかしながら、右は、本症の研究に先駆的役割を果した植村が、永田論文を熟読すると共に、学会発表を聴取したり座談会に出席したり海外の実情を視察するなどの個人的経験を積むことによって得た、光凝固法に対する多分に先取的な個人的評価(ちなみに、植村による評価自体、後に至って消極的な方向への変動がみられ、例えば昭和四六年一一月刊の現代産婦人科大系二〇Bにおいては「現時点においては本症の確実な治療法はない。」と述べ、更に、最近では、光凝固法の治療法としての有効性の判定は今のところできておらず、副作用も全く否定できず、適応例は限定されるとしているようである。)を発表したものと解され、右評価をもって直ちに光凝固法に対する学界の一般的な評価を代表するものと考えることは相当でない。

(2) その他の評価について

前記植村においても、永田が昭和四二年秋の学会で初めて光凝固法を発表した時には、発育途上にある未熟な網膜に対する悪影響及び全身麻酔による影響を危惧するかのごとき質問(これに対し永田は右危惧につき否定的な答弁をしている。)をしており、右質問(答弁も)は、臨床眼科二二・四に掲載された右永田論文末尾に付記されていた。また、同四三年七月刊の新生児の脳と神経において、植村と並ぶ未熟児眼科の権威とされる塚原は、光凝固法について「症例数も少なく術後の観察期間も短いので、治療法としての価値の判定はさらに今後の問題である。」と述べ、同四四年一月刊の臨床眼科二三・一の「未熟児の眼の管理」においても光凝固法のことについては一言も触れていなかった。同四四年九月刊の青森県立中央病院医誌一四・三で同病院医師須田栄二は、同四二年一月から同四四年四月迄の収容未熟児についての眼底検査成績を発表しているが、治療については何も触れておらず光凝固法についても触れていないし、同四五年二月刊の小児外科内科二・二で関西医科大学小児科の岩瀬帥子らは「最近光凝固法による治療法が提唱されているが、われわれは症例を経験していないので価値を論ずることはできない。」とし、同じく同四五年二月刊の産婦人科の実際一九・二で日本赤十字本部産院医師の中嶋唯夫は「本症の解明、対策の確立が一日も早いことを願い」と述べて光凝固法のことに触れておらず、同年一一月刊の臨床眼科二四・一一における奥山(国立小児病院小児科医師)の「未熟児の管理」中にも光凝固法のことは触れておらず、同じく同年同月刊の専門医にきく今日の小児診療1の奥山担当部分でも、本症の治療の項に光凝固法のことは触れていなかった。(なお、国立善通寺病院の松原の昭和四四、五年当時の光凝固法に対する評価が「光凝固法を未熟児に適用すること自体別世界の夢物語のような印象を抱いていた。」「光凝固法を評価していたわけではない。」というものであったことは前記のとおりである。)

三  被告病院と同病院における医療体制等

前記一の当事者間に争いない事実のほか、《証拠省略》を総合すれば、次の事実が認められ、この認定を動かすに足りる証拠はない。

(一)  被告病院は四国香川県の中小都市たる坂出市に所在し、昭和四五年当時院長、副院長のほか医師九名(うち一名は嘱託)を擁した総合病院であるが、昭和三七年八月五日児童福祉法第二一条の五第一項により香川県知事より(未熱児)養育医療機関指定を受け、同病院内に未熟児室(「未熟児センター」なる名称も使用された。「被告センター」に同じ。)を設け、保育器(クベース)三台(後に七台になる。)を備え、小児科医一名(但し、専任ではない。)を担当医、助産婦及び看護婦各二名(但し、いずれも専任ではない。)を従事者として未熟児養育医療を開始したところ、昭和四二年九月に新館が完成して以来被告センターは被告病院第一病棟(小児科、婦人科、外科、内科の混合病棟)に置かれ、原告恭子もここに収容されていたもので、当時小児科医の飛梅がその管理責任者として年間六〇名乃至八〇名の収容未熟児の養育に当っていたが、飛梅は右のほか、一般小児の外来患者(一日平均二〇名乃至五五名)の診療、入院患者(数名)の診療その他一般地域医療にも従事していた。

(二)  原告恭子入院当時、被告病院の眼科は別病棟にあったが、常勤医がおらず、隣接の丸亀市所在の香川労災病院勤務医の青野が週三回月水金の午後二時から四時半の間だけ非常勤嘱託医として被告病院に来て眼科全般の診療に当ること忙なっていた。そして、青野は毎週月水金には、まず朝から日課となっている香川労災病院での一般外来患者(一日平均七、八〇名)の診療を午後一時すぎまで行い、昼食後自動車で約二〇分の距離にある被告病院まで原則として自ら自動車を運転して赴き、被告病院裏の職員駐車場に駐車して裏口から眼科のある病棟に入り、一般外来及び紹介の眼科患者(合計一日平均七、八〇名)の診療を済ますと午後五、六時頃になるが、それから再び裏口を出て香川労災病院へ帰り入院患者の回診をするのが常であり、飛梅と顔を合わすこともほとんどないのが実情であった。また、青野は、被告病院で週一回午後零時半から一時半まで開かれる同病院の医局会議に出席を勧められたこともなく、実際問題として出席は時間的に不可能であり、出席したこともなかった。

(三)  原告恭子入院当時、飛梅と青野との間で被告センターに収容中の未熟児に対する眼科医による定期的眼底検査を行う体制はとられておらず、ただ、飛梅において、発症の蓋然性が特に高いと思われるごく特別のケース(生下時体重一五〇〇グラム以下で酸素投与したもので、かつ、酸素投与期間が長かったとか未熟性が強かったとか何かいやな感じがするといったケース)についてのみ、退院時にもし本症が発生していたならその旨を親に知らせておくために、退院の際、院内外来として、青野に対する照会書を未熟児の親に渡して青野の眼底検査を受けさせるにとどまっていた。

(四)  被告病院では、岡が病院長に着任する以前から、週一回午後零時半から一時半の間昼食会を兼ねた前記医局会議を開いており、同会議には各医師、事務長、薬局長らが出席しており、その席上岡において「被告病院には多数の科があるのだから関係のある病状については遠慮せずに関係科に照会するように。」との一般的抽象的な指示を与えたことも何回かあったものであるが、非常勤嘱託医は右医局会議に出席しない例であり、青野の場合も、前記のように実際問題として出席は不可能でもあり、岡においても特に出席方を指示したこともなかった。

四  被告病院における原告恭子に対する養育医療上の措置と同原告の生育経過の概要

《証拠省略》を総合すると、次の事実が認められ(る。)《証拠判断省略》

原告恭子は前記のように昭和四五年一〇月二七日午前九時四五分に丸亀市内の三木産婦人科医院で出生した。同恭子の出生予定日は翌年一月九日であったから、それより約七〇日程早く、いわゆる未熟児として出生し、生下時体重は一二五〇グラム、胎令二九週であった。出生時、仮死の状態で無呼吸時間が一〇分程続いた。同日午前一一時一〇分に携帯用保育器にて被告センターに送院され、同時三〇分に同センターに収容され、直ちに保育器(アトムⅤ55型)で養育を受けた。収容当時の状況は、体格が極小、栄養状態が不良、やせており、手足にチアノーゼが認められ、全身に浮腫があり、うめき声を発しており、呼吸窮迫症候群が認められた。担当小児科医の飛梅は直ちに酸素を毎分三l投与した。翌二八日にはチアノーゼは消失したが、未だ全身に浮腫があり、活発性がなかった。同日午前九時より酸素投与量は毎分二lに減少された。同月三〇にはチアノーゼはなく、手足を動かせるようになり、浮腫も消失し、鼻腔栄養が開始されたが、新生児黄疸が現われた。酸素投与量は翌月六日より毎分一lとなり、同月九日午前九時をもって中止されたので、結局、酸素は生後一三日間投与を受けたことになる。チアノーゼは、前記のほか、一〇月二九日の午後六時頃と一一月七日の午後三時頃に手足に一時的に現われたが、それ以外には現われていない。新生児黄疸は、一一月一〇日には消失している。一〇月三〇日以降は全身の浮腫は消失し、同日頃より手足を動かすようになり、次第に活発性を現わしてきている。嘔吐の症状は全入院期間中みられない。体重は一一月六日に九五〇グラムまで減少したが、その後は次第に増加して行った。一二月八日に保育器より開放性保育施設(コツト)に移され、一二月二五日に退院したが、退院時の体重は二七六〇グラムであった。原告恭子は、入院当初の一両日間は呼吸障害や浮腫がみられ、全身状態が不良であったが、その後は、体格が極小でやせているということを除いては、特記するほどの病症を呈することもなく、良好に経過して退院している。

酸素投与の量については、前記保育器に設置された酸素流量計によってこれを測定していた。被告病院には酸素濃度計はなかったが、他から借用して計測したことがあり、それによると、酸素流量計により毎分三lの酸素を流した場合前記保育器内の環境酸素濃度は三〇パーセント乃至三五パーセント、毎分二lの場合は二五パーセント乃至三〇パーセント、毎分一lの場合は二〇パーセント乃至二五パーセントになる(ちなみに、右結果は文献発表されたところと大差ない。)ことが分っていた。

原告美智子は、同恭子出産後、母親等から、未熟児が保育器で養育された場合眼に障害がでる例があることを聞き、原告恭子についても眼の障害が生ずるのではないかと心配した。そこで、原告仙三及び同美智子は、それぞれ別の機会に飛梅や担当の看護婦に原告恭子の眼につき右の点を心配している旨を告げた。これに対し、飛梅は「そんなに早くから眼の心配をする必要はないのでは。」と答えており、看護婦も「大丈夫ですよ。酸素もそんなに使っていないし。」と答えていた。そして、飛梅は原告恭子の入院中は一度も同原告の眼底検査をせず、眼科医に依頼してさせることもしなかった。

両親原告は、一二月二五日の午後に退院のため原告恭子を引取りにくるようにとの連絡を受け、被告病院へ出向いた。ところが、飛梅は集団検診のためとかで外出し不在であった。そこで両親原告は、看護婦に対し原告恭子について眼の検査が実施してあるかどうか尋ねたところ、未だ全然眼の検査が行われていないとの返事であった。そこで、両親原告は、眼の検査を実施して貰えない限り同恭子を引取るわけにはいかないと考え、すぐに眼の検査を実施してくれるよう強く申出た。そこで看護婦は外出先の飛梅に連絡して、眼科外来への照会票を作成してもらい、その結果、同日夕方に、被告病院眼科外来で眼科医青野が原告恭子に対する眼底検査をした。検査の結果、同恭子の両眼はすでに網膜が剥離しておりオーエンスの分類にいう活動期の第四期に到っており、失明は必至であることが判明した。しかし、青野は、右事実を突然告知することによる両親原告の精神的打撃を思いやると共に、付近に他の患者らが居たこともあり、即時同所における右事実の告知をはばかり、看護婦を介して両親原告に対し「原告恭子の瞳孔が充分に開かないので確実な診断はできないが、今のところ心配はない。暖かくなったらもう一度香川労災病院の方へ連れて来てくれ。」という趣旨を伝えたにとどまった。

退院後、原告仙三は一〇日に一度位の割合で同恭子の眼に懐中電灯などをあてて瞳孔の対光反射に注意していたが、翌年二月二〇日前後頃、同恭子の眼の異常に気付き、同年二月二三日に同美智子は同恭子を香川労災病院に連れて行き、青野の診断を受けさせた。眼底検査の結果、同恭子の両眼は本症の瘢痕期の五度に到っており、完全に失明していることが判明した。そこで、青野は同美智子に対し、本症により同恭子は両眼とも完全に失明していること、もはや治療をしても視力を回復する見込はないことを宣告した。青野は、また、同美智子に問われて、実は前年一二月二五日の退院時に検査したとき同恭子が本症にかかっていたことはすでに判明していたが、そのときオーエンスの分類にいう活動期三期乃至四期の状態にあり、もはや治療の時期を失していて手の施しようがなかったので事実を伝えなかったこと、同恭子が被告病院に入院していた期間中に眼底検査を行なっておれば対策の樹てようもあったが、眼科医としては、担当医である飛梅からの依頼がなければ検査の仕様がなかった、という趣旨のことを述べた。

その後、同恭子は奥田(当時、岡山大学医学部眼科学教授)、植村(当時、東京国立小児病院眼科医長)の診察も受けたが、いずれも本症により失明しており、回復の途はないとの診断であった。

同恭子はその後順調に成長し、盲目という以外にはなんら身体に異常はなく、丸亀市内における生後一年の未熟児に対する健康診断の結果、健康優良児として表彰を受けている。

なお、青野は、原告恭子の場合、生後二ヵ月で網膜剥離に至っていることからして、Ⅰ型、型、混合型という三分類からすればⅡ型に該当するのではないか、と考えている。

五  医師の過失の判断基準

ある医師のなした具体的な医療行為(医療上の不措置を含む。)によって悪い結果が生じた場合において、当該医師の過失の前提となる注意義務について、その当時の通常の医師における臨床医学の水準的知識、特に事実上の専門医として医療行為に携っている医師に関しては当該医師の専門分野及びその近接分野における水準的知識がまず基準とされるべきである。従って、その医療行為当時、臨床医学の最先端において生成発展しつつあった新たな医学知識を基準とすることは妥当でない。要するに、種々の医学的実験を経た後、医学界において有効性や合理性(安全性を含む。)が是認、支持されたもので、かつ、日進月歩の医学の研さんに努めている通常の医師によってそのようなものとして当時認識されていた臨床医学の水準(以下「医療水準」という。)をもって、まず注意義務の判断の基準となすべきである(参考、最高裁判所昭和四四年二月六日第一小法廷判決も、医師としては、患者の病状に十分注意しその治療方法の内容および程度等については「診療当時の医学的知識にもとづきその効果と副作用などすべての事情を考慮」し、万全の注意を払って、その治療を実施しなければならない、と判示している。最民集二三巻二号一九八頁。)

更に、医療行為は、何よりも実践であって、医師の注意義務の判断に当っては、当該医師の置かれている社会的、経済的、地理的な環境(当該医療施設が大学等の研究機関であるか、国公立の専門病院であるか、一般総合病院であるか、普通病院であるか、個人開業医の診療所であるかの点や、勤務医の場合人的物的諸条件の整備度の点を含む。)からの外在的な制約やその他の諸事情をも考慮に入れるべきものである。

六  飛梅及び青野の過失について

(一)  原告らは、飛梅の過失としては、原告恭子に本症が発生したことについての過失はこれを問わず、専ら、早期より青野に依頼して定期的眼底検査をなすべき義務を怠った過失並びに酸素投与加減、副腎皮質ホルモン投与等の治療義務及び光凝固法説明義務を怠った過失のみを問うており、また、青野の過失としては、自発的に飛梅に協力して定期的眼底検査が実施されるよう措置すべき義務を怠った過失並びに副腎皮質ホルモン投与による治療義務及び転医を含めた光凝固法説明義務を怠った過失を問うている。

(二)  そこで、まず、小児科医飛梅において、眼科医青野に依頼して定期的眼底検査をなすべき義務があったか、及び、眼科医青野において、自発的に飛梅に協力して定期的眼底検査がなされるよう措置すべき義務があったか、につき、判断する。

(三)1  飛梅は原告恭子が被告センターに入院している間、その眼底検査を一度も青野に依頼したことはなく、退院当日も両親原告の要望に基づき初めてこれを青野に依頼したこと、は前記のとおりである。

2  そして、前記認定事実に《証拠省略》を総合すると、次のとおり認められ(る。)《証拠判断省略》

飛梅は徳島大学医学部を卒業し国家試験に合格後岡山大学大学院医学研究生(小児科学専攻)として同大学医学部小児科学教室で先天異常の研究をし、更に、臨床医としての経験も積んだ後、昭和四一年七月より香川県の中小都市たる坂出市立総合病院たる被告病院の小児科勤務医となると共に、その任務の一端として被告センターの管理責任者として未熟児の養育医療に当ってきたもので、昭和四五年当時、日本小児科学会、四国小児科学会に入会し、医学雑誌として小児科診療、小児科臨床、日本小児科学会誌を購読して新知識の吸収にも努めていたが、本症について特に専攻したことはなく特に深い関心を持っていたわけでもなかった。飛梅の当時の本症及びその予防法に関する理解の程度は、本症は未熟児に発症することがあり、酸素が影響するかもしれず、環境酸素濃度を四〇パーセント以下にしておけばまず発症しないが時には発症することもあるらしい、東大小児科治療指針によれば、右濃度は通常四〇パーセント程度にとどめ、右投与期間は生下時体重一二〇一乃至一五〇〇グラムの未熟児の場合一乃至二週が大体の目安とされている、というものであった。飛梅は右基準を遵守するように努めていた。ところで、被告センターでは昭和四一年より当時まで生下時体重一五〇〇グラム以下の極小未熟児についても十数名を生育させてきた(生育できず死亡したのは二十数名)。そして、飛梅はかつて一度も本症による失明例を経験したことがなかった。(昭和四二、三年ごろ被告センターで酸素投与を受けた宮崎誠なる未熟児が本症の瘢痕期に達し緑内障を併発して失明した例があったものの、飛梅は当時網膜膠腫(先天性異常)が原因だと思っていたものであり、本症が原因であることは最近になるまで知らなかったし、同四五年五月二一日被告病院産科で生下時体重一〇四〇グラム、胎令三二週で生まれ被告センターに収容されて濃度二lの酸素を二五日間投与(投与日数、総投与量とも原告恭子より多い。)を受けた田中良樹なる未熟児が同年一〇月七日当時瘢痕期五度で失明したことも最近になるまで知らなかった。)そして、原告恭子の場合にもその酸素投与については右東大小児科治療指針を遵守して、右濃度が四〇パーセント以上になるような投与方法もとらず、投与期間も一三日にとどめたものである。同恭子は入院当初の一両日を過ぎた後は、その経過はおおむね良好であった。当時の飛梅の本症の治療法に関する認識の程度は、副腎皮質ホルモンについては副作用の故に未熟児への投与を消極的に考えており、光凝固法や定期的眼底検査については、飛梅の購読していた前記三種の医学雑誌にもほとんど出ておらず、飛梅は、光凝固法の存在は知っていたものの、ごく一部の先端的な研究との認識を抱いており、当時他に本症に対する有効な治療法はないと考えていたことから、定期的眼底検査の必要性についての認識がなかったものである。

(四)1  青野が自発的に飛梅に協力して定期的眼底検査がなされるよう措置しなかったことは前記のとおりである。

2  そして、前記認定事実に《証拠省略》を総合すると、次のとおり認められ、この認定を動かすに足りる証拠はない。青野は岡山大学医学部を卒業し国家試験に合格後同大学大学院医学研究科(外科系眼科学専攻)で角膜、斜視、弱視の研究をし、同大学医学部講師、眼科医局長を二年勤めた後、昭和三九年八月より香川県の中小都市たる丸亀市所在の総合病院たる香川労災病院眼科勤務医兼同じく香川県の中小都市たる坂出市立の総合病院たる被告病院眼科非常勤嘱託医として勤務するかたわら、右香川労災病院で斜視、弱視、白内障、緑内障の研究もしていたもので、昭和四五年当時、日本眼科学会、日本眼科医会に所属し、医学雑誌として、眼科、臨床眼科、眼科臨床医報、日本眼科学会雑誌を購読して新知識の吸収にも努めていたが、本症について特に専攻したことはなく特に深い関心を持っていたわけでもなかった。青野の昭和四五年一一、一二月当時の本症についての経験は、瘢痕期に至った失明眼底を岡山大学付属病院で一、二例、香川労災病院で一、二例、被告病院外来(被告病院小児科からの依頼による病院内外来ではなく純然たる外来)で二例(前記宮崎誠及び田中良樹)経験した程度で、本症が活動期から進行していく状態を継続的に観察した経験はなかった。前記医学雑誌等で植村や永田の論文は読んでいた(学会で研究発表を聞いたことはない。)が、光凝固法については非常に新しい実験を行っているという程度の印象を持っていたにとどまり、当時追試の発表もなかったため、その有効性等に疑いを抱いていなかったわけではなく、その実用ということは考えなかった。また、当時副腎皮質ホルモン投与の効果があるとの論文を読んだこともなく、その有効性を認識しなかったので、結局のところ、定期的眼底検査をしても治療法がないため定期的眼底検査の必要性も感じなかった。青野は被告センターのメンバーでもなく(そもそも指定養育医療機関の指定基準にも「小児科または産科の医師がいること」だけしか求めていなかった。)、同センターから未熟児の定期的眼底検査について特に協力を求められたこともなく(ちなみに、青野の本務病院たる香川労災病院には未熟児センター乃至未熟児室はなかった。)、前記のように飛梅と顔を合わす機会すらほとんどない実情にあったものである。

(五)  ところで、昭和四五年一一、一二月当時における定期的眼底検査の普及度は前記二(五)1乃至3のとおりであり、当時においては、一部の研究的、専門的又は先進的医療機関以外の一般の未熟児養育医療機関へのその普及度はまだまだ低いものであったということができる。

(六)  のみならず、本症の発生の予防という点からみる限り、定期的眼底検査が無意味であることは前記のとおりであって、結局、定期的眼底検査は本症に対する治療法なかんずく有効な治療法と結びついてのみ医療行為としての意義を有するというほかはない。そこで、次に定期的眼底検査と結びつくに足りる有効な治療法の存否を検討するに、治療法については前記二(四)で検討したところであるが、そこでも述べたように、本件口頭弁論終結時(昭和五二年一一月二五日)現在においては、その有効性に議論もあり、また副作用の可能性が完全に否定されたわけではなく、また、その適応例は限定されるとしても、現時点における一応有効な治療法として一応存立しているといえないこともないのは光凝固法及びこれと作用機序をほぼ同じくする冷凍凝固法のみである。よって、未熟児の養育医療に従事する小児科医、眼科医にとって、定期的眼底検査が医療の水準的知識となり、その実施義務が生じるためには、未熟児の養育医療に携わる通常の小児科医、眼科医において光凝固法(冷凍凝固法を含む。)の有効性を認識するに至ることが必要であるというべく、換言すれば、ある時点において、未熟児の養育医療に携わる小児科医、眼科医にとって定期的眼底検査が医療の水準的知識となりその実施義務が生じていたといいうるためには、未熟児の養育医療に携わる通常の小児科医、眼科医においてその当時光凝固法(冷凍凝固法を含む。)の有効性を認識していたことが必要である。

ところで、前記二(六)1乃至3によれば、昭和四五年一一、一二月当時冷凍凝固法は未だ発表されておらず、当時における未熟児の養育医療に携わる小児科医、眼科医の光凝固法に対する平均的な認識は、せいぜい、本症の治療法として二、三年前に光凝固法が登場したという程度のものであって、その有効性を明確に認識していたものとはとうてい考えられない、といわざるをえない。

(七)  以上を総合すると、原告恭子が被告センターに入院していた昭和四五年一一、一二月当時において、未熟児に対し定期的眼底検査を実施することが、未熟児の養育医療に携わる通常の小児科医、眼科医にとって医療水準にまで達していたということはできず、飛梅の場合は、当時全国的にみて新生児未熟児医療が一番遅れていたといわれ、定期的眼底検査を実施している医療機関はほとんどなかった四国乃至香川県の中小都市である坂出市の市立一般総合病院に勤務して、日頃研さんに努めてはいるものの、未熟児の養育医療をその任務の一端としているにすぎず、本症について特に専攻したことも特に深い関心を持ったこともなく本症による失明例を(客観的にはともかく主観的には)経験したこともなく、光凝固法の治療法としての有効性も認識しておらず従ってまた定期的眼底検査の必要性をも認識していなかった小児科の通常の臨床医であって、飛梅の原告恭子に対してなした酸素投与の濃度も高くなく期間も僅か一三日に過ぎず、また、青野の場合は、前同病院の非常勤嘱託医で被告センターとは特に何の関係もなく飛梅と顔を合わす機会すらほとんどなく、本症について特に専攻したことも特に深い関心を持ったこともなく本症の眼底をその活動期から継続的に観察した経験もなく、光凝固法の治療法としての有効性もあまり認識しておらず従ってまた定期的眼底検査の必要性をも認識していなかった眼科の通常の臨床医であったのであるから、同人らにおいて原告恭子に対し定期的眼底検査を実施すべき注意義務があったということはできない。従って、右義務違反による過失を肯定することもできない。

よって、飛梅において早期より青野に依頼して定期的眼底検査をなさなかったこと、青野において自発的に飛梅に協力して定期的眼底検査が実施されるよう措置しなかったことをもって、右両名に過失があったとする原告らの主張は理由がない。

なお、前記認定によれば、原告恭子の被告センター入院直後ごろ両親原告が飛梅や看護婦に対し原告恭子の失明の心配を訴えていた事実があるが、右事実も前記過失に関する判断を左右するものではない。

(八)  更に、原告らは、飛梅につき、酸素投与加減、副腎皮質ホルモン投与等の治療義務及び光凝固法説明義務を怠った過失、青野につき、副腎皮質ホルモン投与による治療義務及び転医を含めた光凝固法説明義務を怠った過失があると主張するが、前記認定によれば、原告恭子に本症の発症が発見された時点においては、すでに酸素投与は終っており、かつ、本症の活動期の第四期に到っていたものであるから、酸素投与加減の余地はないうえ、前記二(四)によればいずれにしても治療の適期を過ぎていたというべきものであって、飛梅、青野に原告ら主張のごとき義務があったということはできず、右義務違反による過失を肯定することもできず、右主張は理由がない。

七  岡の過失について

原告らは、被告病院の病院長たる岡については、飛梅及び青野が有機的に協力して定期的眼底検査を行ない、もって早期に本症を発見し、かつ、適切な治療を行なうよう、絶えず指導監督すべき注意義務を怠ったとして、その過失を主張しているので判断する。

まず、岡が被告病院の病院長であったことは前記のように争いがなく、岡が週一回の医局会議の席上関係科間の協力につき医師らに一般的抽象的な指示を与えていたことは前記のとおりであるが、岡が原告ら主張の具体的な指導、監督をしなかったことは《証拠省略》によりこれを認めうる。しかしながら、仮りに、病院長において原告ら主張のごとき具体的な医療行為につき関係医師に対し指導、監督をなすべき義務を負う場合があるとしても、前記認定の当時の医療機関における定期的眼底検査の普及の程度及び光凝固法の有効性の認識の程度等に鑑みるときは、岡に原告ら主張のごとき義務がありそれを怠った過失があったということはできないというのほかはない。よって、原告らの右主張は理由がない。

八  結語

以上によれば、飛梅、青野、岡にはいずれも原告ら主張のごとき過失はなく、右過失の存在を前提として被告に対し原告恭子の失明による損害の賠償を求める原告らの本訴請求は、その余の点につき判断するまでもなく理由がないからこれを棄却することとし、訴訟費用の負担につき民事訴訟法第八九条、第九三条第一項本文を適用のうえ、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 緒賀恒雄 裁判官 古川正孝 山﨑杲)

〈以下省略〉

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